(旧)週間買った本

2013年まではてなダイアリーに書いたもの。

「日本」を超える日本サッカーへ (コスモブックス)

「日本」を超える日本サッカーへ (コスモブックス)

4月に出た「サッカー批評」でのインタビューでオシムは、良いプレーができなくても勝てるチームが本当に強い、という話の流れで「アート」という言葉を使う(p19-20)。
―悪い内容でも結果に結びつけるのが選手や監督のアート、芸術です―
―何とかしてしまうという帳尻合わせ、つじつまを合わせてしまう能力です―
とインタビュアーの西部さんは訳している。
読んでいて、フランス語とドイツ語どちらの発言だったとしても日本語の「芸術」は誤訳で、平たく言って「特別な技」のことじゃないかと疑念を持っていた。西部さんに限らず日本語の「芸術」に対する理解の方が(カタカナのアートでも同様)問題でもあるしなあと思っていたが、今度のアジアカップについての本でそのオシムのインタビューが再び取り上げられ、60、70%の状態で勝つことができるのがサッカーのアートだ、という言葉に続けて次のように少し訂正して紹介している。

「アートとは、何とか切り抜ける能力で、“悪い予感を持つ”ということです。“何か上手くいかないかもしれない”と感じ、それでも何とかする手はないかと切り抜ける方法を考える力です」 (p29、カタール戦についての第1章から)

まだアートという言葉を使っているのは、オシム独特の言葉遣いとして捉えているせいかもしれない。だが「アートとは・・・能力で・・・力です」というのはやっぱりおかしくないだろうか。最初から特別の術、技、芸などとといえばよいと思う。日本語としてふさわしい言い方を考えるなら、「(サッカーにおける)ワザ(がある)」というあたりではないか。
別にオシムはそこで変わったことを言っていないと思う。だから芸術、アートという日本語に対する理解の方が問題だろう。簡単にいえばカタカナの「アート」は芸術という日本語を片仮名にしたもので、英語の“art”の音を片仮名にしたものではない。芸術をやわらかく言い換えたにすぎない(なぜか複数形の片仮名「アーツ」は音を片仮名にしただけで日本で独自の意味を付与されていないようだが)。
もうひとつ引っかかるのは、一般に流布する「サッカーは芸術だ」という物言いとそのように訳したことが関係あるのでは、ということである。その出典が正確にはどうなのか知らない*1が、それも「美しい誤解」の可能性がある。これはもっと調べてみたいところである。
はっきりしてるのは、サッカーにおけるartを、オシムはそういうワザとして語ったことである。

ところで西部さんは、上記の話のあと、Jリーグで2対0が安心できないという話題を続け、清水などの元監督のゼムノビッチが「2対0のリードが一番心配だった」と言っていたのを挙げている。ちょうど一緒に読んでいた『実況席のサッカー論』でも山本浩さんが2対0からやられるケースをよく見たと言っている。そして同様にこのスコアを、西部さんはプロのゲームなら終わりと言い、山本さんはエメ・ジャケのそれが危ないのは弱いチームだけという言葉を紹介する。さらに符合するように、一方では旧ユーゴ代表に逆の要因から同じ傾向があった、もう一方では山本さんの言葉を受けた倉敷さんがJリーグが2対0に弱いタイプのサッカーである可能性を指摘する。結局、2対0が危ないスコアだというのは一般にヨーロッパで通用せず、だからといって単に日本のサッカーが弱いせいでそうなるのだとは言えない、という指摘で一致している。

実況席のサッカー論

実況席のサッカー論

*1:元ブラジル代表監督の故テレ・サンターナの言葉という話がある