(旧)週間買った本

2013年まではてなダイアリーに書いたもの。

古本。
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異界幻想―種村季弘対談集

異界幻想―種村季弘対談集

2冊目はそう安いわけではなかったが、新古書店ではなかなか見ないだろう本だったので買ってしまう。もっとも割引券を使ったのだが。


以下は付け忘れていた古本。

猫の縁談 (中公文庫)

猫の縁談 (中公文庫)

初版1刷のものだが、どこで買ったかあやふやである。別に差し障りがあるわけではないが、たぶん新古書店ではなかったと思う。裏表紙をめくったところには200(円)と鉛筆で書かれた跡らしいものがある。消したのは自分でそれは覚えている。そもそも、中身を見たときから一遍読んだ(=買って持っている)のでは、という疑念が湧いたのがおかしかった。同じ本を2回買うことはほとんどないからである。過去の日記を調べると、出久根達郎の本を読み出したのは6年半ほど前である。そこからそれほど間を置かずに何冊か文庫で読んでいて、もし読んだのに忘れているとすると、だいたい5年ほど前に読んだ内容を覚えていないことになる。家にある文庫本を調べればはっきりするのだが、その詮索はとりあえず後回しにして、今日はこの文庫所収の中篇「猫阿弥陀」を読んでいた。モスバーガーで食事しながらだったので、全部読む気は無かったが、なかなか引き込まれる内容でいつの間にか物語は後半に差し掛かっていた。この話の後半には、所収の他の短編と同じ主人公の古本屋の「私」による語りだけでなく、登場人物の書いた日記と思われる小説の引用部分と、「私」が聞き出した同業者の母の話という3通りの語りが組み合わされている。巧妙な作りであるのだが、ふいに語り手が変わると、読んでいる方は前のページを何枚かめくったりする必要が出てくることもある。加えて小説の引用部分は、「私」の語りと文体が違うだけでなく、本当のことが書かれているか注意しなくてはいけない雰囲気である。そうして残り30ページないなというあたりまで読みすすめたところ、その引用部分の会話が不自然につながっている。突如語り手が変わったのかと読み返してみるがどうもおかしい。話をつなげることは不可能ではなさそうだが、少し不自然すぎる。そこでよく見直すと256ページの次が273ページになっていた。小説の内容からして出来過ぎた話だが、本当に落丁のようである。そこから読むのはやめていて、どうしたものか思案中である。同じ版の落丁のない本が手に入れば丁度いいのだろうか。